中江兆民という人物をご存知でしょうか。ルソーの『社会契約論』の翻訳を行ったフランス学者で、自由民権運動に多大な影響を与えた人物です。
実はこの人、日本で最初に告別式を行った人物でもあります。今の告別式は大体が「葬儀と告別式はセット」という形式ですが、そもそも日本にはどういった形で告別式が広まることになったのでしょうか。
日本人の死生観に多大な影響を与えた偉人の話、今回は中江兆民の話をご紹介します。
無宗教的な死生観を綴った遺稿が当時ベストセラーに
中江兆民は1901年に喉頭癌で亡くなったのですが、医師から余命1年半との告知を受けた中江は『一年有半』『続一年有半』という遺稿を書きました。
著名人の生前の遺稿として当時は大変な売れ行きになり、中江の神や霊魂を否定した無宗教的な考えは中江本人の無宗教葬「告別式」と合わせ、当時かなりの物議を醸したと言われています。
中江兆民が没した明治30年代は葬儀批判が起きていた時期
実は、中江兆民が没した明治30年代は葬儀を荘厳誠実なものにすべきという意見や、葬儀費用の簡素化・合理化を訴えていた時期なのです。中江兆民と同年に亡くなった福沢諭吉の葬儀でも大隈重信を除き一切の供物を断り、荘厳で簡素な葬儀にしていました。
明治30年ごろは葬列を組む葬儀がもっとも盛んであった時期であったが、と同時に生活改良の考え方から、新聞雑誌などに葬儀の改良を求める意見が数多く掲載されるようになる時期でもあった。時期改良すべきとしてあげられることが多いは、①故人に敬意を払い、安車快走せず徒歩で壮烈に従うべきとの主張と、②葬儀の時の施主側からの飲食の供応、会葬者側からの供物の簡素化の主張の二点である。
引用:『中江兆民の死と葬儀』 村上興匡
告別式は葬儀を自己の最終表現として考える過程で生まれた
中江兆民は無宗教葬に対する強いこだわりがあり、それは当時からしてみれば異常ともとれるほどでした。その結果、中江本人の遺志を汲み、通常の葬儀の手順から宗教色を無くした葬儀として「告別式」が誕生したわけです。
したがって、告別式のような無宗教による「別れの場」が設けられたのは、今まで共同体がとりおこなってきた葬儀が「個人の生の最終表現」としての意味も持ってきたこと示しています。
なぜ告別式は普及したのか
中江の死後も、大学関係者や法曹関係者の間では相当数の告別式が行われたようですが、実際に一般大衆に広まったのは昭和に入ってからです。都市化の中でそれまでの葬儀のメインであった「葬列」が廃れ、代わりに自宅での告別式が主流となっていきました。
葬列は様々な役割が必要なため、共同体によって行われてきましたが、都市化の流れの中で葬儀の主体が徐々に共同体から喪家に移る過程で葬列が告別式に変化したのです。そして現在ではさらに葬儀の主体が喪家から「個」へと移りつつあり、葬儀と告別式が一体となってる今の形になっているのです。
まとめ
- 中江兆民が葬儀を自己の生の最終表現として考え、無宗教式の「告別式」が生まれた
- 都市化の流れで一般国民の間でも「葬列」が「告別式」に変化した。
- 現代は葬儀の個人化の流れで告別式は葬儀と一体化している
「最近の新しい葬送はけしからん!!」という意見もありますが、そもそもの告別式だって時代にとらわれずに死生観と向き合った中江兆民がはじまり、というお話でした。
出典:『中江兆民の死と葬儀』 村上興匡
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