日本人で知らない人はいませんよね。
今回この記事では、1万円札でお馴染み福沢諭吉の死生観をみていきます。
福沢諭吉は慶應義塾を創設し、明治維新の文明開化に大いに貢献した日本の偉人です。
その葬儀は日本に大きな影響を与えています。
目次
明治時代の葬儀と福沢諭吉の葬儀
福沢諭吉の葬儀はどのようなものだったのでしょうか?
明治時代は、賑やかな葬列だった?
福沢諭吉が亡くなった明治当時の葬儀は自宅から菩提寺まで棺を担ぎ、「葬列」を組んで練り歩くものでした。
供花や出棺の際に放鳥、提灯などの葬具を担ぎ、道行く人に葬列の移動にあたっては人力車も用いられていました。
大規模な移動になるため、中には煙草をふかしながら談笑にふける人など、現在の葬儀のイメージとは違うどちらかと言うとパレードのようなものだったと言います。
とりわけ有名人に至っては大名行列さながらの華美・盛大な葬列が新聞各紙を賑わせていました。
質素な葬儀を望む故人と、そうするわけにもいかない喪家
明治30年代と言うのは風俗改良運動が盛んに叫ばれた時代です。
特に華美・壮大で賑やかな葬列に対して、葬儀にお金を掛けるのは家計を傾けることで良くないという考えが広まってきた時代でもありました。
具体的には供花・放鳥の辞退、さらには供物の辞退が増えていき、故人も遺言で葬式を簡素に行うようにという人も増えていったようです。
しかし実際のところ、故人の遺志が実際の葬儀に反映されることは少なかったようで、故人が質素な葬儀を望みながらも、遺族は様々な事情から通常の葬儀を開かざるを得ないという、奇しくも現代の葬儀と非常に似た状況にあったと言われています。
諭吉の遺志を貫いた、世間一般の葬儀とは違う「簡素で荘厳な葬儀」
そうした時代背景の下でもう一度福沢諭吉の話に戻ると、福沢諭吉の遺児の一太郎と捨次郎の両人名義の死亡通知広告に加え、「慶応義塾同窓諸君ニ告グ」という広告が掲載されています。
福沢先生御葬式ノ節門生ノ情トシテ香花又ハ香花料ヲ供シ度キ存意ナレドモ先生御遺言中ニ固ク辞セヨトアリシヲ以テ小生等ニ於テハ先生ノ御意思ニ従ヒ一切供物ヲ為サザルコトニ決セリ諸君ニモ幸ニ御同意アランコトヲ希望ス
そして実際の葬列の様子を新聞は、
先生の素志に基き一切の香奠及び造華生花の類を固く辞し、苟且にも虚儀虚飾に流れず、ただ清浄と厳粛を旨としたるを以て、世間一般の葬儀とは大に観を異にするものあり
と伝えており、福沢諭吉の遺言を徹底する形の葬儀が執り行われています。
すべて無慮一万五千人、これまた四名ずつ列を正して葬送したるが、いずれも徒歩と云い、かつ行列中喫煙もしくは高声の談話等をなす者なく、いとも静粛に終始哀悼の意を表し居たり。
喫煙や談話をことさら取り上げていることから、いかに当時の葬列がある意味賑やかなものだったのか、また当時の一般の葬儀と異なるものを徹底して行われたのかが伺えます。
葬儀だけでなく死後にもこだわった
違う宗派の寺に自分の墓を作った福沢諭吉
福沢諭吉の菩提寺は浄土真宗本願寺派の善福寺ですが、福沢諭吉は生前よく散歩に来ていた大崎の本願寺(現・常光寺)からの眺めを大変気に入り、ここに墓地を買い入れたそうです。
寺檀関係を超えて、自分の好きな場所に埋葬するという行為は、地縁血縁が重視されていた明治期では異例で、福沢諭吉がいかに死後へこだわっていたかが伺えます。
善福寺への改葬 良好な状態で掘り起こされた福沢諭吉の遺体
諭吉の死後、常光寺の本堂建設に伴い、別宗派の諭吉の墓は移転せざるを得なくなり、1977年5月に善福寺への改葬が実施されることになりました。
この時、お茶の葉と伏流水に浸かった諭吉の遺体は驚くことに白骨化することなく、生前そのままの姿で発見されました。
保存も検討されたものの、遺族の意向で火葬され、予定通り善福寺への改葬が終わりました。
福沢諭吉の葬儀から何を学ぶべきか
読売新聞は福沢諭吉の葬儀を次のように伝えています。
総べて質素にして然も荘厳なりしは一万有余の会葬者が悉く徒歩せし事とともに人々の一層感動せし処なりき
故人の遺志を徹底して尊重した福沢諭吉の葬儀は新聞報道を通じて日本人に深い影響を与えたことでしょう。
一方で、諭吉の死後100年経ってもなお、相変わらず葬儀は当時と同じ問題を抱えているような気もします。
世間一般の葬儀にとらわれ虚儀虚飾に走るのではなく、死をまっすぐ見つめた諭吉とその遺志を尊重した人々から、今学ぶべきだと思います。
[参考文献] 此経 啓助(著)現代書館(出版)『明治人のお葬式』/