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著名人による感動的な弔辞5選 | 小泉今日子が中山美穂に送った弔辞など

弔事を読む男性

人生において別れの瞬間は誰にでも訪れます。その中でも特に、著名人が友人や仲間へ送った弔辞には、深い絆や想いが込められており、多くの人々の心を打ちます。

本記事では、中山美穂さんへの小泉今日子さんの弔辞、横山ノックさんへの上岡龍太郎さんの弔辞、赤塚不二夫さんへのタモリさんの弔辞をはじめとする、特に記憶に残る感動的な弔辞5件を全文で紹介いたします。それぞれの言葉の中に込められた、故人への想いや関係性にも触れながら、その背景とともにお伝えしていきます。

1.小泉今日子が中山美穂に贈った弔辞(2025年)

女性の遺影

拝啓、中山美穂様。初めて会ったのがテレビ局の控え室。狭い部屋を2人で使うことになったわよね。人見知りなあなたは上手に微笑むことさえ出来なかった。その時、あなたはまだ16歳。右も左も分からない、新しい世界に飛び込んでしまって、おびえている子猫のようでした。

何が本当で何が嘘なのか分からなくなるようなこの世界での忙しい日々の中、それを見極めるにはまだ幼いあなたの瞳の中には自分の心の中の真実、つまり、サンクチュアリには誰も信用させないという強い意志が漏れていました。その瞳はずっと、あなたの魅力だったよね。

その瞳を見た瞬間に、この子とは仲良くなれそうだと思ったのでした。予想通り、友達になった私達は「美穂」「きょんちゃん」と呼び合い、ご飯にいったり、旅行に行ったり、一緒にお酒を飲んではしゃいだり楽しい青春の時間をたくさん過ごしました。

それぞれの人生が新たな局面を迎え、会う機会が減り、美穂どうしてるかなと思いながらも日々に忙殺されてもきっと、どこかで必ず会えるでしょうと思っていました。会ったら話したいことが、たくさんありました。

今、この祭壇の前に立ち、あなたへのお別れの言葉を述べるという未来は想定外でした。本日お集まりの皆様も同じ気持ちだと思います。そして何より、美穂のファンの皆様にとっては大きな喪失感の中でつらい日々をお過ごしのことと思います。

でもね美穂、ファンの皆さんが、毎日のようにあなたが歌っている姿、あなたが演じている姿、ためいきが出るほど美しいあなたの写真などをSNSに投稿してくださってていますよ。初めて見るものもたくさんあって、今さらながらファッション、俳優としての美穂の素晴らしさを目の当たりにしています。

ファンの人達の前で歌っている美穂は、1番奇麗で1番素直に見えます。愛され、愛す、シンプルなことだけれどもとても難しい環境をきちんと、築いていたのだなと思います。

今日はこの後に、美穂の心の友たちがお花をたむけにくるようです。両手を伸ばしてちゃんと抱きしめてあげてくださいね。

天国で出会った方たちのために、美穂の取り扱い注意を箇条書きで記します。

1.ものすごく楽しそうにはしゃいでいる時は、心の中に大きな問題を抱えている可能性があります。寄り添って目を離さないでください。

2.機嫌が悪そうに見えるときには、おいしい食べ物やお酒を与えると簡単にご機嫌になります。

3.自分の気持ちを言葉にするのが苦手です。それゆえ限界まで達してしまうことがあります。そんなときは抱きしめてあげてください。

4.根が優しいので、すぐに人を信用してしまい騙されたり利用されたりすることがあります。守ってあげてください。

5.根が素直なので、よく泣きます。ぽろぽろ大粒の涙を流します。常にハンカチのご用意を。以上中山美穂のトリセツでした。

本日このような場を用意してくださった、関係者の皆様に感謝いたします。そして、幸いのお姉様を突然失い、大きな失意の中気丈に振る舞う中山忍さん本当に立派でした。頼もしい妹に美穂は感謝していると思います。気を落とさずにこれからも、ますます俳優として人生を輝かせてください。美穂もそれを臨んでいると思います。

さて、いよいよ私は、ある言葉をあなたに言わなけばなりません。美穂、さようなら。美穂、よく頑張ったね。美穂、ありがとう。可愛い妹。美穂、元気でね。美穂、そのうち行くから待っててね。

歌手・女優の中山美穂さんが54歳の若さで急逝したことを受けて、同期アイドルで公私ともに親しかった小泉今日子さんが「お別れの会」で友人代表として読んだ弔辞です。

80年代にトップアイドルとして共に人気を博した二人は、プライベートでも姉妹のような深い絆で結ばれていました。弔辞では初対面の16歳当時の中山さんの様子を懐かしく振り返り、瞳の美しさや青春の日々の思い出が語られました。

小泉さんは声を震わせながら「会えたら伝えたいことがたくさんあったのに…こんな形で別れを告げるなんて」と無念の思いを吐露し​、最後は「美穂、さようなら。今まで本当にお疲れ様。ありがとう、愛しい妹よ。元気でね。私もいつかそちらに行くから、それまで待っていてください」と何度も故人の名前を呼びかけて涙ながらに別れを告げました​。

会場は静かな涙に包まれ、長年の友情と愛情が伝わる感動的な弔辞となりました。

2.宮崎駿が高畑勲に贈った弔辞(2018年)

弔事を読む宮崎駿

パクさんというあだ名のいわれはですね、定かでない部分もあるんですが、大体ものすごく朝が苦手な男でして、東映動画に勤め始めたときも、ギリギリに駆け込むというのが毎日でございまして、買ってきたパンをタイムカードを押してから、パクパクと食べて、水道の蛇口からそのまま水を飲んでいたという、それで「パク」が「パク」になったという噂です。追悼文という形ではありませんが、書いてきましたものを読ませていただきます。

パクさんは、95歳まで生きると思い込んでいた。そのパクさんが亡くなってしまった。自分にもあんまり時間がないんだなあと思う。9年前、私たちの主治医から電話が入った。「友達なら、高畑監督のタバコをやめさせなさい」と真剣な怖い声だった。主治医の迫力に恐れをなして、僕と鈴木さんはパクさんとテーブルを挟んで向かい合った。姿勢を正して話すなんて、初めてのことだった。

「パクさん、タバコをやめてください」と僕。「仕事をするためにやめてください」これは鈴木さん。弁解やら反論が、怒濤のように吹き出てくると思っていたのに、「ありがとうございます。やめます」 パクさんはキッパリ言って、頭を下げた。そして本当にパクさんは、タバコをやめてしまった。僕は、わざとパクさんのそばへ、タバコを吸いに行った。「いい匂いだと思うよ。でも全然吸いたくなくなった」とパクさん。彼の方が役者が上だったのであった。やっぱり95歳まで生きる人だなあと、僕は本当に思いました。

1963年、パクさんが27歳、僕が22歳の時、僕らは初めて出会いました。その初めて言葉を交わした日のことを、今でもよく覚えています。黄昏時のバス停で、僕は練馬行きのバスを待っていた。雨上がりの水たまりの残る通りを、一人の青年が近づいてきた。「瀬川拓男さんのところに行くそうですね」 穏やかで賢そうな青年の顔が目の前にあった。それが高畑勲ことパクさんに出会った瞬間だった。55年前のことなのに、なんてはっきり覚えているのだろう。あの時のパクさんの顔を、今もありありと思い出せる。瀬川拓男氏は、人形劇団太郎座の主催者で、職場での公演を依頼する役目を、僕は負わされていたのだった。

次にパクさんに出会ったのは、東映動画労働組合の役員に押し出されてしまった時だった。パクさんは副委員長、僕は書記長にされてしまっていた。緊張で吐き気に苦しむような日々が始まった。それでも、組合事務所のプレハブ小屋に泊り込んで、僕はパクさんと夢中で語り明かした、ありとあらゆることを。中でも、作品について。僕らは仕事に満足していなかった。もっと遠くへ、もっと深く、誇りを持てる仕事をしたかった。何を作ればいいのか、どうやって。パクさんの教養は圧倒的だった。僕は得難い人に巡り会えたのだと、うれしかった。

その頃、僕は大塚康生さんの班にいる新人だった。大塚さんに出会えたのは、パクさんと出会えたのと同じくらいの幸運だった。アニメーションの動かす面白さを教えてくれたのは、大塚さんだった。ある日、大塚さんが見慣れない書類を僕に見せてくれた。こっそりです。それは、大塚康生が長編映画の作画監督をするについては、演出は高畑勲でなければならないという、会社への申入書だった。

当時、東映動画では、監督と呼ばず演出と呼んでいました。パクさんと大塚さんが組む。光が差し込んできたような高揚感が、湧き上がってきました。そして、その日が来た。長編漫画第10作目が、大塚・高畑コンビに決定されたのだった。

ある晩、大塚さんの家に呼ばれた。スタジオ近くの借家の一室に、パクさんも来ていた。ちゃぶ台に大塚さんはきちんと座っていた。パクさんは組座し、事務所と同じようにすぐ畳に寝転んだ。なんと僕も寝転んでいた。奥さんがお茶を運んでくれた時、僕は慌てて起きたが、パクさんはそのまま「どうも」と会釈した。女性のスタッフにパクさんの人気が今ひとつなのは、この無作法のせいだったが、本人によると、股関節がずれていて、だるいのだそうだった。

大塚さんは語った。「こんな長編映画の機会は、なかなか来ないだろう。困難は多いだろうし、制作期間がのびて、問題になることが予想されるが、覚悟して思い切ってやろう」 それは意志統一というより、反乱の宣言みたいな秘密の談合だった。もとより僕に異存はなかった。何しろ僕は、原画にもなっていない、新米と言えるアニメーターにすぎなかったのだ。大塚さんとパクさんは、ことの重大さがもっとよくわかっていたのだと思う。

勢いよく突入したが、長編10作の制作は難航した。スタッフは新しい方向に不器用だった。仕事は遅れに遅れ、会社全体を巻き込む事件になっていった。パクさんの粘りは超人的だった。会社の偉い人たちに泣きつかれ、脅されながらも、大塚さんもよく踏ん張っていた。僕は夏のエアコンの止まった休日に一人出て、大きな紙を相手に背景原図を描いたりした。会社と組合との協定で、休日出勤は許されていなくても、構っていられなかった。タイムカードを押さなければいい。僕はこの作品で、仕事を覚えたのだった(涙声)。

初号を見終えた時、僕は動けなかった。感動ではなく、驚愕に叩きのめされていた。会社の圧力で、迷いの森のシーンは「削れ」「削らない」の騒ぎになっているのを知っていた。パクさんは、粘り強く会社側と交渉して、ついにカット数から、カットごとの作画枚数まで約束し、必要制作日数まで約束せざるを得なくなっていた。当然のごとく、約束ははみ出し、その度にパクさんは始末書を書いた。一体パクさんは、何枚の始末書を書いたんだろう? 僕も手いっぱいの仕事を抱えて、パクさんの苦闘に寄り添う暇はなかった。大塚さんも、会社側の脅しや泣き落としに耐えて、目の前のカップの山を崩すのが、精一杯だった。

初号で僕は、初めて迷いの森のヒロイン、ヒルダのシーンを見た。作画は大先輩の森康二さんだった。何という圧倒的な表現だったろう。何という強い絵。何という優しさだったろう。これをパクさんは表現したかったのだと、初めてわかった。パクさんは、仕事を成し遂げていた。森康二さんも、かつてない仕事を仕遂げていた。大塚さんと僕は、それを支えたのだった。

『太陽の王子』公開から、30年以上経った西暦2000年に、パクさんの発案で『太陽の王子』関係者の集まりが行われた。当時の会社の責任者、重役たち、会社と現場との板挟みに苦しんだ中間管理職の人々、制作進行、作画スタッフ、背景、トレース彩色の女性たち、美術家、撮影、録音、編集の各スタッフがたくさん集まってくれた。もう今はないゼロックスの職場の懐かしい人々の顔も混じっていた。

偉い人たちが「あの頃は一番面白かったなあ」と言ってくれた。「太陽の王子」の興行は振るわなかったが、もう誰もそんなことを気にしていなかった。

パクさん、僕らは精一杯、あの時、生きたんだ。膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕らのものだったんだ。ありがとう、パクさん。55年前に、あの雨上がりのバス停で、声をかけてくれたパクさんのことを忘れない。

スタジオジブリの盟友である高畑勲監督の「お別れの会」にて、宮崎駿監督が友人代表として弔辞を述べました。

宮崎監督はアニメ業界での先輩でもある高畑監督を愛称「パクさん」と呼びかけ、初対面から約55年に及ぶ思い出を振り返りながら何度も声を詰まらせました。

高畑監督とは『太陽の王子 ホルスの大冒険』以来コンビを組んで数々の名作を生み出した仲で、その絆の深さがうかがえます。

宮崎監督は「あなたが先に逝ってしまうなんて」と無念の思いを滲ませつつ、最後は「パクさん、本当にありがとう」と感謝の言葉で締めくくりました。

高畑監督の人柄と功績を称え、長年の友情に感謝する宮崎監督の弔辞に、会場の多くが涙しました。

3.タモリ(森田一義)が赤塚不二夫に贈った弔辞(2008年)

弔事を読む男性

弔辞

8月2日にあなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。

われわれの世代は赤塚先生の作品に影響された第1世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクター、私たち世代に強烈に受け入れられました。10代の終わりからわれわれの青春は赤塚不二夫一色でした。

何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていた時に、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。終わって私のところにやってきたあなたは、「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションにいろ」と、こう言いました。自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。

それから長い付き合いが始まりました。しばらくは毎日新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。他のこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして仕事に生かしております。

赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。麻雀をする時も、相手の振り込みであがると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしかあがりませんでした。あなたが麻雀で勝ったところを見たことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことはありません。

あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんの額をぴしゃりと叩いては、「この野郎、逝きやがった」と、また高笑いしながら大きな涙を流していました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。

あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。

今、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が、思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外への、あの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。

あなたは今この会場のどこか片隅で、ちょっと高い所から、あぐらをかいて、ひじを付き、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「おまえもお笑いやってるなら弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。あなたにとって死も1つのギャグなのかもしれません。

私は人生で初めて読む弔辞が、あなたへのものとは夢想だにしませんでした。私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今、お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の1つです。合掌。

漫画家・赤塚不二夫さんの告別式で、親交の深かったタモリさんが読んだ弔辞です。

赤塚さんは無名時代のタモリさんを見出し、自身の命名で「タモリ」を芸名とさせるなど、公私にわたり支援した恩人でした。

弔辞は約8分間に及びましたが、手に持った紙は白紙で、すべてアドリブで語られたことが後に明かされています。文末でタモリさんは「赤塚先生、ありがとうございました。

私もあなたの作品の一つです」と感謝を述べ​、長年言えずにいた恩への謝辞を捧げました。この弔辞はその年の『文藝春秋』に全文掲載され、大きな反響を呼びました。

生涯初めて読んだ弔辞が師である赤塚さんへのものとなったタモリさんは、弔辞の途中でトレードマークのサングラスを外し、涙ながらに盟友との別れを惜しみました​。

4.上岡龍太郎が横山ノックに贈った弔辞(2007年)

弔事を読む上岡龍太郎

ノックさん、あなたは僕の太陽でした。あなたの熱と光のおかげで僕は育ちました。あなたの温かさと明るさに包まれて生きてきました。ノックさん、あなたはみんなの太陽でした。あなたが現れるだけでその場がぱっと明るくなりました。あなたが笑顔を見せるだけでみんな心が癒やされました。ノックさん、あなたは大きな太陽でした。あなたの前に立つと、自分がいかに些細なことにこだわり、つまらないことに悩み、取るに足らないことで人と争っているか。自分自身の小ささを思い知らされました。

ノックさん、あなたは今、西の空を真っ赤に染めて、水平線の向こうに沈んでいこうとしています。でも、僕の胸の中には今も真夏の太陽のようなあなたがぎらぎらと輝いています。あなたと初めて会った昭和35年1960年8月5日から、最後となった平成18年2006年4月4日までの思い出の数々が、まるで宝石のようにキラキラと胸いっぱいにつまっています。

六甲のベースキャンプ、ハウスボーイ時代にはサミーと呼ばれ、宝塚新芸座では三田久と名乗り、秋田Kスケから横山ノック、漫画トリオになったノックさん。初めて買ったブルーバードファンシーデラックスが盗まれ、セドリックからアルファロメオ、ジュリアスプリントベローチェ、運転手付きのダッジ・ダートに乗り換えたノックさん。我孫子町から沢之町、西宮北口から千里津雲台、桃山台の豪邸から芦屋に移り住んだノックさん。漫才師から参議院議員、大阪府知事から最後は被告人にまでなったノックさん。

相方は車や住まいや肩書きはコロコロと変えたけど、奥さんだけは生涯変えなかったノックさん。血の滴るようなTボーンステーキが大好き。あんころ餅や大福もちといった甘いものが大好きで、なにより麻雀が大好きだったノックさん。女性が大好きだったノックさん。料理を作るのが上手かったノックさん。麻雀がへたくそだったノックさん。女性を口説くのが上手かったノックさん。お酒は弱かったノックさん。麻雀も弱かったノックさん。女性にも弱かったノックさん。

マーロン・ブランド扮するナポレオンの髪型を真似してピンカールしていたノックさん。あの頭で10日に1回、散髪に行っていたお洒落なノックさん。進駐軍仕込みの英語が堪能だったノックさん。そのくせカタカナは苦手だったノックさん。人を笑わせるのに自分は泣き虫で、賑やかなことが好きなさみしがり屋で、ありがた迷惑なほど世話焼きで、ああ見えて、意外に人見知りで、甘えん坊で頑固で意地っ張りで負けず嫌いで、天真爛漫でこどもっぽくてかわいくて、そしていつでもどんなときでも必ず僕の味方をしてくれたノックさん。

ノックさん、本当にありがとうございました。ノックさん、本当にお疲れ様でした。そして、ノックさん、本当にさようなら。

タレントで漫才コンビ「漫画トリオ」の一員でもあった横山ノックさん(元参議院議員・大阪府知事)の葬儀にて、盟友であり後輩の上岡龍太郎さんが読んだ弔辞です。

上岡さんは2000年に芸能界を引退して以来メディアに出ていませんでしたが、ノックさんとの別れの場に現れました。

弔辞の冒頭、「ノックさん!」と呼びかけて始まり、「あなたは僕の太陽でした」と先輩への尊敬と親愛を込めて表現しました​。

ユーモアを交えつつも最後は嗚咽をこらえながら感謝と別れの言葉を述べ、参列者の胸を打ちました。漫才師として長年苦楽を共にした「相方」への愛情と敬意が強く感じられる弔辞でした。

5.勝新太郎が石原裕次郎に贈った弔辞(1987年)

石原裕次郎の遺影

はじめて会ったときから、もう...十年。最初は勝ちゃん…裕ちゃん。その次に「勝」「裕次郎」。
最後は、兄弟! そういう仲になって。
きょう、この弔辞を読めといわれたときに、いいのかなあ、俺なんかが弔辞、読んでいいのかなあ。
きのう『さよなら裕次郎』という本と、それから、お兄さんの石原慎太郎氏の書いた文章と、読んでるうちに、とうとう朝になっちゃって。
11時まで間があるんで、高校野球、見てて。高校野球、見ててもなにかなんかしゃべること見つけなくちゃいけない、見つけなくちゃいけないと思って、どうしても、その言葉が出てこない、そうしたら、兄弟、 なんだよ、おまえ好きに言えよ、好きなこと言やあいいんだよ、来て。
そういう声が聞こえたんで、ここへ来たら、ほんとに、生きてるときも思いやりがあったけども、死んで肉体がなくなっても、この魂が……この写真の顔が、たいへん楽にさしてくれて。
悲しい葬式じゃなくて、なにか楽しい、と言っちゃいけないんだけども、ああ…なにか非常に、最高な葬式にめぐりあったような気がする。
ずいぶん前だったけど一遍、酒飲んで喧嘩したことがあった。 「表へ出ろ!」っていうから、「ああ、いいよ、上等だ!」って。たしか渋谷の「屯喜朋亭」かなんかだったと思うんだけど、出て、便所んとこ行って……そしたら、「おい、芝居にしようよ」って言ったときの、あの、やさしい目。
そのときのもう、とても普通の俳優じゃできない、すばらしい演技力というか、でき心というか。
もちろん、すばらしいっていうことはわかってたんだけども、役者としては俺のほうが勝ってんじゃないかななんて思いながら、このあいだ『陽のあたる坂道』とか、いろんなのを見てるうちに、とても追っつかないなと、これは。
これは、俺たちみたいな、変な演技するとか、そんなもうそういうもんじゃ、とても、これはかなわないと、石原裕次郎っていうのは、もう、すごいんだと、つくづく思った。
生きていながら死んでるやつが多い世の中で、死んで、また生き返っちゃったという、このすごさ。これは、とってもすごい。頭が下がる。そんなすごい人から、兄弟っていわれた、俺も幸せ。
ほんとに、どうもありがとう。いろいろ教わった。
どうせまた、どっかで会うんだろうけども、そんときは、ああ、そうか、陽光院天真寛裕大居士、ちょっと呼びにくいけども……どっかで会うんだから、
それまで…さよなら。

昭和を代表する大スター石原裕次郎さんの葬儀では、親友で俳優仲間の勝新太郎さんが友人代表の弔辞を務めました。

勝さんは裕次郎さんと「兄弟」と呼び合うほど親交が深く、弔辞の中でも「生きていながら死んでる奴が多い世の中で、死んでまた生き返っちゃった裕次郎の凄さよ」と裕次郎さんの圧倒的な存在感を称えました​。

実は勝さんは憔悴しきって声を詰まらせ、途中で涙ぐむ場面もあったといいます。

しかし最後は「どうせ、どこかで会うんだから。それまで、さようなら」と語りかけ、盟友との再会を天に誓うように締めくくりました​。

昭和の映画界を支え合った二人の固い絆が伝わる名スピーチであり、その場にいた多くの人々の涙を誘いました。

まとめ

本記事で紹介した弔辞は、ただ故人を悼むだけではなく、生前の思い出や人間関係、そして深い感謝の気持ちを伝えるものでした。タモリさんのように即興で心情を語ったものから、小泉今日子さんのように感情を率直に表現したものまで、それぞれの弔辞が、故人との深いつながりを物語っています。

これらの弔辞はまた、人生における人間関係の大切さや、亡くなった方をどのように記憶し、送り出すかを私たちに考えさせてくれます。誰もがいつか経験する「別れ」の場面において、どのような言葉を選ぶかという大切な問いへのヒントにもなっているでしょう。

故人への想いを伝えるために紡がれたこれらの弔辞は、時を超えて私たちの心に深く響き続けています。

 

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