親しい人が亡くなったりすると、遺族から弔辞をお願いされることがあります。弔辞とは故人との最後の「お別れの言葉」です。
定型文の無いものだからこそ、事前にどのようなものを書いたら良いのか、基本や例文を見てましょう。
目次
弔辞の基本
弔辞の構成
弔辞の前提として、弔辞に定型文は無いということを押さておきましょう。ただ、一から全部自分でつくり上げるのは大変なので、一般的に盛り込んでおくと良いものがあります。①訃報を知った時の悲しみや驚きや、②故人の人柄や経歴、功績、エピソードなど、また③残されたものとしての現在の心境、今後の決意④冥福を祈ることば、別れのことばなどで構成するのが一般的です。
弔辞の長さ
弔辞の長さは特に決まりはありませんが、長すぎると式の進行が滞るので、世話役などから特に指示がない場合は3~5分前後に収まるようにします。普通に話すスピードだと、四百字詰め原稿用紙3枚程度が目安なので、実査に声に出して読んで調整するようにしましょう。
弔辞で注意する点
基本的には挨拶と同様です。
弔辞は原稿を見ながら読んでOK!
祝辞では原稿を持たずに話すことが良いとされていますが、弔辞の場合は原稿を用意して読み上げ、元通りに畳んで霊前に捧げるのが一般的です。
正式には巻紙に薄墨で筆書きします。上包みは奉書紙を使い、「弔辞」と表書きをします。弔辞の最後には日付と署名を書くようにします。
市販されている弔辞用紙を使用してもよいでしょう。
なお、白無地の便箋に弔辞を書き、白封筒に入れるという略式の方法もあります。
なお、弔辞は式後は遺族宅に保管されるという前提で考える必要があります。ほとんどの場合は略式でも問題はないでしょうが、大規模な葬儀など、場合によっては正式のきちんとした形にしておくほうが良いでしょう。
忌み言葉を避ける
弔辞も挨拶と同様に、「ますます」「度々」など繰り返しを連想させる重ね言葉などは避けるようにします。
宗教的な表現
内容は基本的には自由ですが、宗教用語に関してはその葬儀の宗教に則ったものにすべきです。「冥福、成仏、往生」などは仏教用語なので、神式やキリスト式では用いないようにすると良いです。
弔辞の文例
基本的な弔辞
(①リード文:冒頭で「弔辞」と入り、故人の名前をフルネームで呼びかけるように始まるのが一般的です。)
つい先日、久しぶりに会い、積もる話をして、「また会おうな」と言って別れたのに、まさかその三日後に事故で命を奪われ、このような形で再会することになろうとは痛恨の極みです。せめて、君の魂はまだここにいるものと信じて、お別れの言葉を捧げます。
(②訃報の驚きや悲しみ:死亡する状況によって表現を変えます。)
○○君、君と初めて出会ったのは、中学一年生の時でした。同じ水泳部の部活動、新人戦で君が優勝し、私は2位。僅差ではなく、大差をつけられました。そのとき私に「勝負は時の運」と言ってくれましたね。私は君からのエールと思って、次の大会でも頑張りました。しかし、結果は変わりませんでした。私が君の前方を泳ぐことは一度もなかった。
(③故人との思い出・人柄:故人との具体的なエピソードを簡潔に紹介します。)
こうして振り返ると、君との四十数年間が走馬灯のように頭のなかを駆け巡ります。あるときはゴルフ、あるときはマラソン、そして将棋。色々なことに興味を持ち、しかもとことん究める君の生き方に影響されて、君が何かを始めたら私も後を追う、その連続だったように思います。君に会えなかったら、私は無趣味なつまらない男として一生を終えていたかもしれません。
君はいつも私の前にいて、そして人生でも、こうして先に逝ってしまった。私の前に、もう君の姿はありません。悲しみとともに、心細さが募ります。しかし、いつまでもその思いにとらわれていたら、頼りないやつだと笑われそうですね。せめて、人生の長さだけでも、君を超えさせてもらいます。私はこれから、君の爽やかなスポーツマンシップと、バイタリティを思い出しつつ、生きていきます。君には、高いところからご家族の皆さんと私達を見守っていて欲しい。そう願います。
(④心境:悲しみの気持ちを表し、前向きな表現で締めると良いでしょう)
○○君、たくさんの思い出をありがとう。どうか安らかにお眠りください。さようなら。
(⑤結び:故人の冥福を祈り、別れの挨拶をします。)
故人と交友関係のあった人の弔辞
大学時代からの友人へ
○○君、君の早すぎる訃報に接し、僕はただ茫然とするばかりです。大学卒業後、君は故郷の岡山に戻って役場に就職し、僕は東京で会社員になりました。それぞれ違う道に進んでも、毎年一度は定期的に集まっていましたね。そして、お互いに家庭を持ち、今年は家族ぐるみで会おうと約束していたのに……。このような形で顔を合わせることになろうとは、悲しさと悔しさで胸が締め付けられる思いです。
君は覚えているだろうか。いつか僕は君を評して、「風みたいだね」と言ったことがありましたね。あれは君の人との接し方を見て思ったことでした。普段はとても優しい君が、曲がったことを言う人には、暴風雨のような勢いで立ち向かっていく。きみのそういう生き方は、風の様に自然で、僕には羨ましいくらいでした。私も会社では、上と下との板挟みになってつらい思いをすることがあります。そんな時は君を思い出して、風になろうと自分に言い聞かせておりました。しかし、実際にはなかなかなれるものではありませんでした。
そんな話も今度会った時にゆっくり聞いてもらい、助言をして欲しいと思っていたのに、本当に残念でなりません。君も、奥さんの典子さんと幼い○○君を残して逝ってしまうのはどれほど無念だったことだろう。悲しみに沈む○○さんにおかけする言葉もないのですが、せめて今夜は、ここに集まった旧友達と君の青春時代の思い出話をして、○○さんをお慰めしたいと思います。
君の亡き後は、我々にできるかぎりの応援をさせていただくつもりです。君も天空からみんなを見守っていてください。○○君、かけがえのない友情と思い出をありがとう。辛いけど、最後の別れを言わなければなりません。さようなら、どうか安らかに。
学生時代からの友人へ
訃報を受けた時、私はあなたの旅先から届いた絵葉書を読み返していたところでした。すぐには信じられず、本当に事故が起きてしまったのだとわかった後も、まさかという思いが消えませんでした。夢であってほしい、大声で泣いてしまったら、夢が現実になってしまいそうだ、そんな思いに今も駆られています。
あなたと私は、都立○○高校で出会いました。席が隣同士になったのがきっかけで、私が「これからよろしくね」と声をかけたら、あなたはかわいい笑顔で応えてくれました。そう、あなたは何をするにも笑顔で応えてくれました。「宿題を教えて」と言っても、「休みの日に遊びに行こう」と言っても、いつも笑顔で応えてくれました。
そんなあなたは気持ちも温かく穏やかで、小さなことで落ち込みがちな私は何度救われたことでしょう。あなたはたった一度、失恋をしました。それを私に打ち明けてくれた時も、話し終わったらまた笑顔になったのです。私だったら、その場で人目もはばからず泣いたでしょう。でもあなたは、私に心配させまいとして、涙ではなく笑顔を浮かべました。その笑顔の中に、何かとても強いものを感じました。
○月○日の突然の出来事は、私から宝物をひとつ消してしまいました。宝石よりもずっと素敵な笑顔を奪ってしまいました。でも、私の心のなかでは、あなたはずっと光り輝いています。私はあなたから頂いた素晴らしい贈り物を胸に、これからの人生を歩んでいきます。あなたにはとても及ばないでしょうけど、あなたのような笑顔で、私も人に接するようにしていきます。こんな私を、友達を、そしてご家族の皆さんをいつも見守っていてくださいね。
○○さん、これまで本当にありがとう。何百回何千回言っても言い足りませんが、心からの「ありがとう」をあなたに捧げ、お別れの言葉といたします。○○さん、どうか安らかにお眠りください。
幼なじみへ
○○、君の訃報に接した時、私はほとんど驚きませんでした。それはそうでしょう。君はこれまで、私になんでも話してくれた。病に侵されていることも、そしてそれが決して軽いものではないこともね。だから、私なりの覚悟をすることもできたのです。しかしやはり悲しかった。唯一無二の親友が逝ってしまったのだから。どんなに覚悟をしていても、こればかりは抑えようがありません。
小学生の頃は、私もわんぱくでしたが、君も私以上に活発でした。あの頃はいろんな悪さをしました。そして中学生になっても、私はまだ悪ガキのままでしたが、君は風紀委員会に入り、三年生になると委員長になってしまった。いわば、敵同士です。しかし、実際にはそうではありませんでした。君はやたらに校則や生徒心得などを振り回さないのに、いつの間にか相手を従わせてしまう、不思議な力を持っていました。位負けというのだろうか、落ち着き払った態度や実力に圧倒されて、私も君には逆らうことができなかった。その○○がとうとう逝ってしまった。私ももうすぐ行くから、などと口にしたら、君はきっと「女々しいことを言うな」と、私をたしなめるでしょう。位負けしたままのお別れです。
小学校以来、約六十年。今、私はきみとのこの六十年間をゆっくりと振り返っています。きみとの思い出の数は、おそらく他の級友の誰にも負けないでしょう。それを、大いに誇りに思っています。誇りの気持ちを噛み締めながら、今夜はひとりで別れの杯を傾けるつもりです。涙酒などには絶対にしません。だから安心して、君もそちらでいっぱいやってください。当分はこんな形で酒を酌み交わすことになりそうですね。それでもいいではないですか。
○○君、いよいよお別れです。君のご冥福を心から祈っています。さようなら。
職場・学校関係者への弔辞
会社の部長へ
○○部長、私達は専務の悲報に接し、等しく深い悲しみをに包まれております。部長は病床につかれてから、ご自身の症状を随時具体的に私達に伝えてくださいました。そして、近うちにこの日を迎えなければならないので覚悟を固めよとのお言葉が、最後のご指示であることを私達は存じておりました。それでもなお、この現実に正面から対峙することはできない思いがしておりました。
○○部長は創業者である現社長に請われて、我が○○株式会社に入社され、社内外の期待に十分応えられ、社業発展に尽力されました。部長は、入社された当時、まだ一般化してなかったオフィスのオートメーション化にいち早く着目され、オフィス改造工事を実行に移されました。この分野で我が社が業界をつねにリードし続けることができましたのは、○○部長の先見性と行動力のたまものであったといえましょう。
○○部長は、また卓越した指導力の持ち主でいらっしゃいました。私達は部長に徹底的に鍛え上げられ、若輩だった私達は部長を鬼と呼んでいましたが、部下の一人一人の能力・適性を的確に見極めて指示を出されましたから、社員は皆、それぞれの役割を十分に果たすことができました。そして、自分に優れた能力が備わっているかのような錯覚を覚えたことも、一度や二度ではありません。部長こそが私達の活動力の基板であったことを、痛感しております。
部長、どうかご安心ください。社員一同は、ご遺志をしっかりと受け継ぎ、○○軍団が不滅であることを、社内外に示し続けてまいる覚悟をしております。○○専務、本当にありがとうございました。ご冥福を心からお祈り申し上げます。
長年一緒に仕事をしてきた上司へ
このようなとき、誰よりもしっかりと足を踏ん張っていなければならないはずの私ですが、身も心も宙に浮いたような頼りなさから、抜け出すことができません。部長、このあまりにも突然の悲しい出来事を、すんなりと受け止めることはとても無理です。それでも部長、この私をお叱りになりますか。
○○部長はよく雷を落とされましたね。私が最初に大きなお叱りをいただいたのは、初めての夏のことでした。私がご自宅にお中元の品をお送りしたところ、部長は私をお叱りになられましたね。返したい気持ちがあるなら、仕事で返すべきだとおっしゃったことを今でも覚えています。一ヶ月ほど前に居酒屋に私を誘ってくださった折に部長は、「君と一緒に仕事をしてきて、何年になるかな」とつぶやかれました。私は「一緒に仕事をした」と言ってもらえたことが本当に嬉しかったのですが、もしかしたら、部長は今日という別れの日が来ることを、私に言外に告げようとされていたのでしょうか。ただ喜んでいるだけだった自分の浅はかさを、恥ずかしく思っております。
○○部長、正直申し上げて、私はまだ、部長がいなくなったことを信じることができません。しかし、受け止めなければなりません。部長と一緒に仕事をしてきたことを私の誇りとして、今は亡き○○部長のご遺志を、あなたの部下一同とともに、しっかりと受け継いでまいります。
どうか、これからは高いところから、私達をお見守りください。ご冥福を心から祈っております。○○部長、本当にありがとうございました。安らかにお休みください。
上司から部下へ
○○さん、こうして君の遺影の前に立つことになり、誠に残念でなりません。これは上司としてではありません。同じ職場で喜びや辛さを分かち合ってきた仲間としての思いです。君の同僚も、先輩・後輩も、みんな同じ思いでしょう。
○○さん、君との付き合いはそれほど長くはありませんでしたが、君が残してくれた思い出は、決して少なくありません。私でさえそうなのですから、君の同僚や先輩・後輩たちには、様々な思い出が刻まれていることでしょう。
私が○○さんに対して最初に鮮烈な印象を抱いたのは、君がまだ我が社に採用される前のことでした。採用試験の質問で私が仕事観について尋ねたときです。決められたことを、決まった方法で着実にという答えが多い中で、君はただ一人「創造性」を謳っていました。君なら我が社に新たな波を創りだしてくれる。そう思って君を採用にしたことをよく覚えています。
君の仕事ぶりは、期待を裏切りませんでした。確実で、工夫が感じられ、私もしばしば君の力を借りることがありましたた。そんな有能な仲間が、急逝してしまったのです。
今、私は自分の体の一部が無くなってしまったような、大きな喪失感と痛みを感じています。ご遺族の皆様のことを思いますと、お慰めの言葉も見つかりません。ですが、私達がここで力を落としてしまっては、君も安心できないでしょう。心を決めて君にお別れの言葉を告げ、私達も○○君のいない職場を立ち直していきます。どうか心安らかにお眠りください。○○君、ご冥福を祈ります。
同期入社の同僚へ
この度の突然の悲報に、私は体が震えるのをどうしても抑えることができませんでした。
○○君、君と私は、平成○○年入社の同期生でした。同じ部署に配属され、机を並べて○年間、ともに仕事をしてきました。君は熱心に仕事をこなし、私もそれに刺激を受けて仕事に没頭しました。また、君はよくみんなを笑わせてくれました。ムードメーカーという言葉がぴったりでした。
性格も違うし趣味も違う。それでいてウマが合うという不思議な仲でした。この悲しみの場にあって頭をめぐるのは君との楽しかった思い出ばかりです。でも、正直に言うと、こんなにも突然に逝ってしまった君を責めたい気持ちです。いつもの様に隣の席で仕事をして、みんなを笑わせて欲しい。本当にそう思います。でもこれは、私のはかない願いにすぎないことですね。
社内だけでなく、お客様にも信頼があり、私は君を見習ってばかりでした。以前私が 大きな失敗した時、いっしょに残業して助けてくれました。次に君が困ったときは、 必ず私が力になろうと決めていたのに、君には何もできぬまま、今日という日を迎えることになってしまいました。
君の身に起きた不慮の事故は、ご家族の今後にも大きな影響をもたらすことです。ご家族の今後について、さぞ不安に思っていることでしょう。私が、君に返せなかったものを、ご家族に返したいと思います。そして、職場のみんなとともにできる限りの支援をさせていただきます。なので、○○君もどうか見守っていてください。どうか、心安らかにお眠りください。○○君、さようなら。
教え子から恩師へ
○○先生、久しぶりの再会がこのような形になろうとは、思いもよらないことでした。昨年のクラス会に、先生は体調を崩されたとのことで、欠席されました。先生のご欠席は初めてのことでした。早速病院のほうへお見舞いにうかがうと、そこには今遺影で拝見しているお顔そのままの、穏やかなお顔がありました。それなのに……。心の乱れを抑えるすべさえわからない状態です。
○○先生の授業はユーモアに満ちて楽しかっただけでなく、分からなかった部分は親身になって教えてくれましたね。補習も個人指導に近い形の補習でしたから、とてもわかりやすく、一度あきらめかけていたことが理解出来た時の嬉しさは格別でした。先生はどんな些細なことでも褒めてくれて、何度も褒められると勉強での悩みはすぐに消えていきました。
みんな、大好きな先生でした。○○先生のような教師になりたくて私だけでなく、○○も○○も教職に就いたのです。みんな○○先生に憧れていたのです。
次のクラス会で、もう先生のお姿を拝見することはできないと思うと、言葉では言い表せない気持ちでいっぱいです。私達同級生だけでなく、先生に教わった数えきれない教え子全員が、共通の思いでいるはずです。これからもずっと、私達を見守っていてください。○○先生はいつまでも私達の恩師です。
○○先生、親身なご指導と、たくさんの温かい思い出をありがとうございました。先生のご冥福を、先生のすべての教え子とともに、心からお祈り申し上げます。
教師から教え子へ
○○君、君の身に起きた悲しい出来事に、クラスの仲間たちはみんな悲しみ、打ち沈んでいます。君に対しても、クラスの仲間に対しても、私は慰める言葉が見つかりません。教師失格かもしれませんね。
○○君、君は物静かな子でしたね。でも、誰にも負けない優しさと責任感を持っていました。君はこの学期から図書係になりました。あるとき、隣のクラスの子が図書室で騒いでいることがありました。君は血相を変えて怒りましたね。いつもの君を知っているその子は、からかうように「係の仕事を邪魔されてそんなに悔しいか」と君に言った。君は目に涙を浮かべながらも、しっかりと相手を見て「そうじゃない、周りの迷惑も考えて」と注意していましたね。その子は調子に乗りすぎたとすっかり反省して、しょんぼりしてしまったね。お互い謝って、それから親友になったと他のお友達から聞きました。君の本当の姿、君の優しさを支えている心の強さを知り、無性に嬉しかったのを覚えています。
○○くんのそんなところをクラスの仲間はとっくに知っていたのかもしれません。優しさは、実は強いものであることを、クラスの仲間も私も、君から教えてもらったように思います。君は目立たない子でしたが、だからといって存在感の薄い子ではなかった。素敵な少年でした。
○○君、今、私の胸にもクラスのみんなの胸にも、ぽっかりと穴が開いてしまったような気がします。今はそんな状態ですが、これから、君と過ごした日々、君の優しさを思い出して、少しずつ穴を埋めていこうと思います。
もう少ししたら、君も含めてクラスメイトは卒業します。その時は高いところからぜひ見てほしい。それまで、さようなら。
社葬・団体葬・大規模葬での弔辞
会社を創業した会長へ
まるまる会長は平成○年○月○日午前○時○分に、○○のため、○○年にわたる生涯を閉じられました。社員一同、ここに深く哀悼の意を表しますとともに、ご遺族の皆様に心からお悔やみを申し上げます。
○○会長は今から○○年前に、当社の前身であった○○商店を創立され、着実に地歩を固められて、○○年後に当社を設立されました。その後も社業ならびに業界の発展に全力を尽くされ、平成○年に会長職に就かれてからは、当社と当業界の重鎮としてご活躍になり、平成○年に勲○等○○章受賞の栄に輝かれました。さらにこの間、市の障害者福祉の面でも多大な貢献をされ、三度にわたり、市長賞などの感謝状を受けられました。このように大きな存在を失うこととなり、まさに痛恨の極みでございます。
○○会長は将棋をご趣味とされていました。堂々たる打ち筋で迷いなく駒を進めるお姿は、そのまま会長のお人柄を象徴しているかのように感じられました。誠に懐かしく思い出されます。
私どもの今の思いは、ともすれば会長のご生前へと向かいがちです。しかし、過去を振り返って執着することを何よりも嫌われた会長に対し、それはあまりにも失礼なことでしょう。会長という大きな存在、それは○○という大きな個性を失って、視線が宙をさまようような私達ではございますが、まずは会長が示された指針の方向をしっかりと見定め、足元を固めて全社員が一丸となって前進してまいることをお誓い申し上げます。
○○会長、私達とその日々の営みを、どうかいつまでもお見守りください。私達も、会長の大きなお姿を絶対に忘れません。社員一同、心からご冥福をお祈り申し上げます。
卒業生代表として校長へ
○○先生は、私が○○高校在学中に校長になられました。ですから、教頭先生としてご活躍の時代から存じ上げております。当時は、お手すきのときはいつも校内を巡回され、生徒と目が合うと必ず一言、温かい声をかけてくださいました。ただ、私達があまり感心できない行動をしているときに出会いますと、その声に何か凄みのようなものを感じて、背筋を伸ばさざるを得ませんでした。
そんな○○先生が校長に就任され、初めて生徒の前で挨拶をされたときのことをよく覚えています。先生は「伝統」をテーマにしたお話をされました。あの年齢の生徒には、伝統という言葉はピンと来ないもので、ともすれば反発さえ感じます。ところが、お話をうかがっていると、伝統を尊重せよとか、伝統を守り続けよと一切言われない。言われないから反発心も生まれません。校長先生は、ただ伝統というものの意味と本質を、若者にもわかる言葉で話されました。一年後の卒業式の日に、校長先生が話されたことが私にもやっと理解できました。自分がこの学校の卒業生になることに誇りをもっている。そしてそれこそが、伝統につながっていくということに。伝統が重要なのではなく、その伝統の最前列にいることを意識することが重要なのだという、本当に大切なことを教えていただきました。
今、○○先生はこの高校の伝統の、道標のひとつになられました。○○先生の教えは、○○高校の未来へと受け継がれていくことでしょう。
先生とのお別れは、深い悲しみではありますが、凛とした心境にもさせてくれます。私達の上に、これからも先生の温かい眼差しが注がれていることを信じ、送別の辞ではなく感謝の心を捧げて、結びとさせていただきます。校長先生、本当にありがとうございました。
有名人の弔辞
弔辞といえば、有名人の告別式での弔辞が思い浮かぶのではないでしょうか。特に印象に残った有名人の弔辞を紹介します。
赤塚不二夫さんへ タモリさんの白紙の弔辞 「私もあなたの数多くの作品の1つです。」
弔辞
8月2日にあなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。
われわれの世代は赤塚先生の作品に影響された第1世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクター、私たち世代に強烈に受け入れられました。10代の終わりからわれわれの青春は赤塚不二夫一色でした。
何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていた時に、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。終わって私のところにやってきたあなたは、「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションにいろ」と、こう言いました。自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。
それから長い付き合いが始まりました。しばらくは毎日新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。他のこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして仕事に生かしております。
赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。麻雀をする時も、相手の振り込みであがると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしかあがりませんでした。あなたが麻雀で勝ったところを見たことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことはありません。
あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんの額をぴしゃりと叩いては、「この野郎、逝きやがった」と、また高笑いしながら大きな涙を流していました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。
あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。
今、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が、思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外への、あの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。
あなたは今この会場のどこか片隅で、ちょっと高い所から、あぐらをかいて、ひじを付き、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「おまえもお笑いやってるなら弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。あなたにとって死も1つのギャグなのかもしれません。
私は人生で初めて読む弔辞が、あなたへのものとは夢想だにしませんでした。私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今、お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の1つです。合掌。
平成20年8月7日、森田一義
いかりや長介さんへ 加藤茶さんの弔辞
弔辞
長さん…。ずいぶん急いで向こうに行っちゃったんだね。
あんた、最後の最後に嘘ついたよなぁ。去年の12月、「大爆笑」のオープニング撮るときに久しぶりに会って、「(ドリフ結成)40周年の記念で『全員集合』と『大爆笑』、この2本撮りたいね」って。長さん「いいね」って、「やろうよ」って、そう言ったよね。うちのメンバー4人もその気になってたんだよね。
だけど、その約束を守れないうちに逝っちゃったね。40年間、一生懸命、一生懸命走ってきて、絶対に妥協を許さない長さんだったよな。40年間、本当に気を抜かないで、一生懸命やってきたんだと思う…。本当にご苦労さん!これから俺たち、4人でドリフターズまだやっていくよ。あんたが残した財産だからね。
荒井注さんが亡くなったとき、長さん言ってたよな。もうじきそっちに行くから、一緒に酒飲もうって。本当にそんな日が来てしまったな。だけど、ちょっと早すぎたんじゃないか?もう少し我慢してほしかったな…。まぁ、二人して積もる話もあるだろうけど、あんまり深酒しないように。
それから、いきなりそっちから「全員集合!」といわれてもオレたちは集まれないからね。たぶん、そのうち本当に「全員集合」になるかもしれないけど、その時はやっぱり、また向こうでコントをやろうよ。
40年間、本当にありがとう。そしてご苦労さんでした。何も心配することなく、ゆっくり休んでちょうだい。さようなら。
加藤茶